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ルンビニのみどころ

 

 

 

マヤ堂
 お釈迦様生誕の地ルンビニは、1997年世界遺産に指定されました。1980年頃まで荒廃し訪れる人も少なかったルンビニですが、その後遺跡公園として整備が行われ、今日の姿となりました。マヤ堂は時代とともに、位置と建築物の形状が変化してきました。今日の形となったのは、ルンビニ中心部の遺構を覆うシェルター型の建造物を建築すべきという、ユネスコも進言によるものでした。
 マヤ堂内部には、発掘調査により検出された建造物の遺構がそのままの姿で残ります。遺構はいくつかの時代に分類され、古い時代のものの上に新しい時代の建造物が建てられるというプロセスが何度か繰りかえされました。特に注目されるのは、紀元前3世紀(アショカ王の時代)と想定される地層から、マーカーストーンが検出された事です。この、マーカーストーンはお釈迦様がこの地で降誕された事を示すとされるもので、マヤ堂のほぼ中心に位置し、渡り廊下の上を進みマーカーストーンのすぐ近くまで行く事ができます。
 マーカーストーンの上には、4世紀グプタ王朝期に刻まれた石製のお釈迦様降誕像が安置されます。イスラム教徒による破壊をうけ、わかりにくくはなっていますが、マヤ夫人が無憂樹の枝に右手を触れられた時、右脇腹よりお釈迦様が誕生され、これを梵天(ブラフマー神)が絹布を手にして抱き上げようとしているところの像です。



アショカ王柱
 マウリヤ王朝3代目アショカ王が即位したのは、紀元前274年頃だといわれます。これはお釈迦様の入滅(死去BC483年頃)のおよそ200年後でした。アショカ王が即位した時代には、マウリヤ王朝はベンガル湾に面したカリンガー国をのぞき、北インド一帯を支配下においていました。アショカ王はカリンガー国を征服するべく、長期に渡る戦を行い、カリンガー国を支配下におく事となります。その際マウリヤ側にもカリンガー側にも多くの死者・負傷者がでました。その悲惨な様子をみたアショカ王は、武力による政治から、仏教の理念に基づく法による政治を目指すようになります。
 この仏教の普及をはかるため建立されたのがアショカ王柱です。アショカ王柱は継ぎ目のない1本の柱の上部に、獅子・牛・象など、仏教にかかわりあいのある動物の彫刻が載せられました。マウリヤ国領土に30本くらい建てられたと推定されていますが、現在残るのは断片のみのものを含めて15本が知られています。
 マヤ堂の西に残る石柱もアショカ柱の1つです。玄奘三蔵の大唐西域記には、柱頭部に馬の石像があった事が記録されていますが、現在は発見されていません。この石柱にはブラフミー語で『神々に愛せられた温容ある王(アショカ王)は、即位20年後に、親しくこの地に巡幸参拝された。ここは仏陀釈迦牟尼の生誕地であるが故に、石で馬像を作り石柱を建立させた。神がここで誕生されたので、ルンビニ村は租税を免じ、生産物の八分の一のみ納めるものとされた』との碑文が残ります。



沐浴の池

 マヤ堂の南に大きな池があります。この池でマヤ夫人がお釈迦様を産む前に沐浴をされた、あるいはお釈迦様が産湯につかったといわれます。実際にはこの池は、1933~1939年に考古学的検証にともなわずに掘られたものです。

 ただ、さまざまな仏教文献にルンビニの池の事は記載されていて、5世紀この地を訪れた法顕は「佛国記」に『王妃が北方からお越しになり、水浴びをされ、身体を清められたのはここである』と残していますし、三蔵は「大唐西域記」に『釈迦族の水浴び用桶である。その水は鏡のように光輝き、清らかである。水面は色とりどりの花で覆われている』と記述しています。



奉献ストゥーパー群

 ストゥーパーとはお釈迦様の舎利(遺骨)を納めるための施設で、仏像が考案される以前は、お釈迦様の象徴として礼拝の対象とされました。奉献ストゥーパーとは、在家の信者などが仏教的徳を積むなどのため建立したストゥーパーで、多くの仏教遺跡でみる事ができます。

 



ティラウラコット(カピラ城の遺跡その1)
 近世以降多くの仏跡地は、発掘調査によりその位置は確証されてきました。しかしシャカ族の都跡カピラヴァースト(カピラ城)については、ネパール領ティラウラコットと、インド領ピプラワの2つの説があり、確証されるにはいたっていません。これには、法顕の「仏国記」(5C)による『ルンビニの西15Kmにカピラヴァーストあり』という記述と、玄奘三蔵の「大唐西域記」(7C)による『ルンビニからサラクーパを経て23Km』という記述が、相違している事が関係しています。 
 ティラウラコットの遺跡へは、ルンビニから西に約20キロ進み、タウリハワーという街から進路を北にとり約5キロ進むと到着します。(所要片道約1時間)城跡の遺跡は南北500メートル・東西450メートルと広範囲に及び、ネパール政府考古局により、城の西門と東門など一部の発掘調査が行われています。
 「大唐西域記」の記録に『カピラ城には高い城壁があり四方に4つの門があった』とあります。また、“四門出遊”のストーリーでは、カピラ城に暮らすプリンス・シッダルタは、東門から外に出て老人と、南門から外に出て病人と、西門から外に出て死人と、北門から外に出て修行僧と遭遇し、出家をお決めになられた、とされています。発掘調査で検出されている東門と西門は、これらの話にも符合しており非常に臨場感を感じさせます。
*ティラウラコットの訪問は、ルンビニで時間にゆとりのあるツアーでのみ行います。



ピプラワ(カピラ城の遺跡その2)
 一方、ピプラワの遺跡は、ティラウラコットの南およそ20キロのインド領に所在します。インド・ネパール間の国境線が間にあるため、ティラウラコットからピプラワに向かう場合、ソノウリでの国境越えの手続きの時間を含め、約5時間以上の移動となります。
 ピプラワの遺跡は1897~1898年に第一次発掘調査が行われ、直径35メートルのストゥーパーから6つの舎利容器が発見されました。そのうちの1つの舎利容器には『これは釈迦族の仏・世尊の舎利容器である』とのブラフミー文字の刻銘がありました。この事は、クシナガラで荼毘に付され、ドローナ仙の調停で8つに分けられた舎利のうちの1つという事を示します。この時出土した舎利容器と仏舎利はデリー博物館に収蔵されています。また、1971~1977年に行われた発掘調査では、31個の印章が発見され、その中からカピラ城に関する文字が認められました。ピプラワの遺跡からは城跡の遺構は検出されていませんが、ピプラワがカピラ城であったという説をとなえる人達の大きな根拠となっています。それぞれの説は対立しますが、時代的・季節的にそれぞれがカピラヴァーストであったと考えるのが妥当かもしれません。
*ピプラワは、ルンビニから祇園精舎に向かう(またはその逆)途中、シッダルタナガールという街を経由すれば訪問する事ができます。但しこの経路の道路状況が悪くなっていたり、時間的ゆとりがない場合は訪問する事はできません。

 



サガールハワー(釈迦族滅亡の地)
 カピラ城の主である釈迦族は、祇園精舎に都をおいたコーサラ国により滅ぼされます。これには次のとおりの経緯がありました。コーサラ国の王プラセナジト王は、釈迦族に妃を提供するよう要求をしました。気位の高い釈迦族はこれに対し、容姿端麗の賤民の子を献上しました。この女性がプラセナジト王の妃となり、瑠璃王子を出産します。ある時、プラセナジト王の妃と瑠璃王子がカピラ城に帰った際、釈迦族の人達が妃の出生の卑しさを嘲笑するのを耳にし、瑠璃王子は大変憤慨しました。瑠璃王子が王位につくと、2回にわたり大軍を送り釈迦族を滅ぼそうとしましたが、途中でお釈迦様と出会い、諭さ れ攻撃を中止しました。ついに3回目の侵攻で、コーサラ国は釈迦族に徹底攻撃をしかけ、滅亡させてしまいます。その際、釈迦族の人達はお釈迦様の不殺生の教えを守り、決して応戦をする事はなかったといいます。
 釈迦族の滅亡後、コーサラ国では『7日後に瑠璃王は焼死する』との噂が国中にながれました。王は恐れ7日目ラプチ河に船を浮かべ避難をしましたが、その船が船火事を起こし死亡してしまいました。
 この釈迦族滅亡の地がサガールハワーです。サガールとは現地の言葉で湖を意味し、今日には戦の時血で水が真っ赤に染まったと伝えられる湖のみが残ります。サガールハワーはティラウラコットの北北東3,5キロに位置します。
*サガールハワーへの道は悪路で、スケジュールに予定されている場合でもお越しいただけない場合があります。



ニグリハワー

 古代の仏教では、お釈迦様が悟りをひらいたのは、お釈迦様の前世である過去仏の功徳が累積した結果であると考え、お釈迦様のみでなく過去仏も礼拝の対象として重要視されました。これは仏教の根本理論の1つである輪廻転生の考え方で、前世の功徳が大きさにより来世が決定づけられるという考え方によります。釈迦の前世である過去仏とは以下の七仏です。尚、過去七仏にはお釈迦様も含まれ、お釈迦様の前世は六仏という事になります。
①毘婆尸佛(ビバシブツ)②尸棄佛(シキブツ)③毘舎浮佛(ビシャブツ)④倶留孫佛(クルソンブツ)⑤倶那含牟尼佛(クナゴンムニブツ)⑥迦葉佛(カショウブツ)⑦釈迦牟尼仏(シャカミニブツ)
 ニグリハワーは第5仏の倶那含牟尼佛(クナゴンムニブツ)生誕の地という事で、アショカ王柱が建てられました。2本現存する王柱のうちの1本の碑文には『ピヤダシ王(=アショカ王)は戴冠14年を記念して、倶那含牟尼佛のストゥーパーを拡大し、戴冠20年を記念には敬意を払い石柱を建立した』と刻まれています。横たわる石柱に刻まれるチベット文字と孔雀の彫刻は、後世に刻まれたものです。ニグリハワーは、ティラウラコットの北東5,5キロに位置します。
*ニグリハワーへの道は悪路で、スケジュールに予定されている場合でもお越しいただけない場合があります。



ルンビニでのご宿泊

ルンビニ法華ホテル
1991年日本の法華クラブが、日本からの仏跡巡拝のお客様が快適な旅行ができるよう、開業したホテルです。全客室数27部屋と規模は小さいものの、僻地にあるにもかかわらずレベルの高い日本食が提供され、設備の手入れも良好です。雄大な自然環境の中に位置するため、インド・クジャクを始め多くの野鳥を観察する事ができます。


ルンビニホテル笠井

2009年開業で、ルンビニ法華ホテル同様、聖地に近く日本食を提供する日本人に使いやすい設備のホテルです。現在30部屋で営業中ですが、拡張工事中で完成すれば合計部屋数52部屋となります。