大菩提寺(大塔)と金剛宝座・菩提樹の聖木
お釈迦様成道(悟り)の地ブダガヤは2002年世界遺産に指定されました。人類にとってかけがえのないお釈迦様成道の地に建つ大菩提寺には、古来より多くに人々が参詣しました。紀元前3世紀アショカ王は、度々ブダガヤ大菩提寺を訪問し、その様子はサンチーの第1ストゥーパーの彫刻にも残っています。サンチーの彫刻に残る大菩提寺の形は、今とだいぶ違い、むしろ今日のクシナガラの大涅槃寺に近い形をしています。AD635年にブダガヤを訪問した玄奘三蔵は『正方形の基底の上に角錐型に聳え立つ建物あり、これはグプタ王朝1世サムドラ・グプタ(AD335~385)により建立された』と記録しています。この時の姿は今とほぼ同じであったと考えられています。やがてインドから仏教が衰退した13世紀、アフガニスタンのバクティヤール・ハルジーが率いるイスラム軍団が北インドに攻め入り、仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院・仏像・神像の破壊を行いました。これはイスラム教では偶像崇拝が禁じられ、偶像は存在自体が罪であると考えたためでした。その時ブダガヤに僅かに残った仏教徒は、大菩提寺を土で覆い、小高い丘に偽装し、この破壊から寺院を守りました。それからおよそ600年の間大菩提寺は土の中にありました。19世紀に入り、イギリス人考古学者カニンガムの発掘調査と遺跡整備により、大菩提寺は今日の姿をとりもどします。大菩提寺の建つ地面の高さは、まわりの地面のレベルより低くなっていて、階段を降りて寺院の参拝を行います。こうした寺院の例はほとんどありません。これは埋められていた寺院を発掘して、今日の姿を取り戻したという事実を如実に語っています。
大菩提寺の内部には、金色に塗られたお釈迦様の降魔成道像が安置されています。降魔成道像は触地印(人指し指を下に向けた印)を示します。これはお釈迦様が悟りを得た時、悪魔が退散し、触地印を示したお釈迦様の悟りが本物であると、地神が証明したというストーリーによります。この仏像は9世紀のパーラ王朝の時代の作品で、本来この時代の仏像は黒い石に彫られたため黒色を呈しますが、仏滅2,500の際にビルマ人により金箔が貼られ、今日の姿となりました。
大菩提寺本堂の裏側に、まさにこの場所でお釈迦様が悟りを得た事を示す金剛宝座と、菩提樹の聖木があります。金剛宝座は135CmX128Cm厚さ15Cmの石盤で、表面には幾何学模様が彫られています。紀元前3世紀・アショカ王の時代マウリヤ王朝期の作品だとされています。金剛宝座のまわりには欄楯がめぐらされ、欄楯内の立ち入りができないうえ、幾重にも布がかけられているためその姿を確認する事はできません。この金剛宝座に覆いかぶさるように鎮座する、菩提樹の大木があります。この菩提樹は、お釈迦様のお悟りの時の菩提樹の孫にあたる、大変に仏縁の深い聖木です。これには次のとおりのストーリーがあります。アショカ王の息子マヒンドラは、スリランカに仏教布教のため渡りました。その際アショカ王の王女サンガ・ミッタもスリランカに同行しました。サンガ・ミッタはお釈迦様お悟りの菩提樹の枝をもち、アヌダラプーラの地に植樹しました。これがしっかり根付き、今日まで枯れる事なく、スリマハ菩提樹と呼ばれるスリランカの国の宝となっています。このスリハマ菩提樹の分け木が、このブダガヤの菩提樹の聖木です。
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(大菩提寺/ブダガヤ
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(菩提樹の聖木/大菩提寺)
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(降魔j成道像/大菩提寺)
アショカ王柱とムチリンダ龍王の池
アショカ王柱については、ルンビニの項で触れました。ブダガヤにもアショカ王柱が1本残りますが、残念ながら柱頭部の彫刻は現時点では発見されていません。
アショカ王柱の残る地点の近くに、ムチリンダ龍王の像が奉られる池があります。お釈迦様の成道後5週目にブダガヤを暴風雨が襲いました。その際ムチリンダ龍王はお釈迦様の体に7回巻きつき、7つの頭で天蓋をつくり、お釈迦様を風雨と寒さから守りました。その後ムチリンダは人間になり、お釈迦様に帰依したといわれます。ムチリンダ龍王は日本ではあまり知られませんが、ガンダーラにも作品がありますし、アンコールワットやボロブドール等東南アジアの遺跡で、多くのムチリンダ龍王像が発見されています。
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(アショカ王柱)
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(ムチリンダ龍王の池)
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(水の涸れた尼蓮禅河と大菩提寺)
スジャータの村(セーナ村)と尼蓮禅河
スジャータはバラモンの娘で、男子に恵まれるよう毎日ガジャマルの木に願をかけていました。ある時いつものようにガジャマルの樹下に行ったところ、1人の修行者が瞑想を行っていました。スジャータはこの修行者は樹神の化身だと思い、ミルク粥の供養を行いました。この修行者こそお悟りの直前のお釈迦様で、これにより活力を得た修行者シッダルタて菩提樹の樹下に赴かれ、悟りをひらかれました。
スジャータの村は、大菩提寺の東約3キロに位置します。途中、悟りの前のお釈迦様が沐浴を行った尼蓮禅河に架かる橋を渡ります。この橋が完成したのは1997年の事で、それまでは乾季で水の涸れた河を徒歩で渡るか、農業用トラクターをチャータ-してスジャータの村を訪問していました。スジャータの村は、最近になってNGO団体が学校を寄付するなどの活動が行われるようになりましたが、あいかわらず素朴な生活が営まれる、典型的なインドの農村です。村の東のはずれに大きなストゥーパが残ります。このストゥーパは、1973~74年と2001~06年の2回発掘調査が行われ、2重のテラスをもつ円形のストゥーパの全容が明らかになりました。建立されたのは8~9世紀に比較的新しい時代で、グプタ王朝期からパーラ王朝期への過渡期の建築様式を示しています。このストゥーパは、この地でスジャータによるお釈迦様へのミルク粥供養が行われた事を記念して建立されました。
ストゥーパの場所から、道幅が50センチあるかないかの畑のあぜ道を北に進むと、約20分でガジュマルの樹下で、お悟りの前のプリンス・シッダルタにミルク粥を供養する、スジャータの像のある寺院に至ります。あたりはとてものどかな農村風景で、今から2,500年前のお釈迦様の時代に舞い戻ったかとの、錯覚に落ちいりそうになります。
*降雨時、あぜ道の歩行は困難になります。お天気が悪い時は、この寺院にはお越しいただけません。
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(スジャータの村ストゥーパ)
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(スジャータの村風景)
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(スジャータの寺院)
前正覚山と留影窟
悟りを得るため、シャカ族の王子の地位を捨て出家したシッダルタ王子は、当時のバラモン教修行者が行ったのと同じ、厳しい修行を遂行しました。それは樹下石上を住居とし、食物は施しによってのみ得、衣装は人々が捨てた布を縫いあわせた糞掃衣をまとうというものでした。さらには断食を行い、悟りを求める苦行は5年間続きました。この修行が行われたのが、前正覚山中腹にある留影窟です。
今日の留影窟はチベット仏教の寺院となっており、お悟りの前のシッダルタ王子が断食を行った洞窟には、ガンダーラ芸術の最高傑作といわれる、“苦行する釈迦像”のレプリカが置かれています。その姿は、全身に骨格と血管が浮きだし、目や腹部はすさまじくくぼみ、その苦行がいかに激しいものであったかを伝えています。
やがては、シッダルタ王子は苦行のための苦行では、成道に到達できない事を悟ります。ついに苦行を捨て、スジャータのミルク粥の供養を受け、前正覚山の頂上に上がられました。その時大地が震動し『この山は正覚成就の場所ではありません。もしここで成道のための瞑想に入られれば、大地は震動し山は傾くでしょう』と山神のお告げがありました。シッダルタ王子は再び山の中腹で、成道のための瞑想に入ろうとすると、大地が再び震動し『ここも正覚成就の場所ではありません。この地より遠くないところに、菩提樹が繁り、その下に金剛宝座があります。過去仏様は皆その座において成道を成就しました。願わくばそこにお出ましください。』と龍神のお告げがありました。かくして、お釈迦様は菩提樹の樹下、金剛宝座の席上で成道の境地へと達せられました。
*留影窟への道路は舗装されていない悪路で、ブダガヤで相当時間があるツアーでないと留影窟にお越しいただく事はできません。また留影窟は前正覚山の中腹にあり、山道を片道およそ30分歩きます。
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(前正覚山/スジャータの村より)
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(留影窟のあるチベット寺院/前正覚山)
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(苦行する釈迦像/留影窟)
ブダガヤでのご宿泊
ロヤルレジデンシーホテル
2002年開業の当社直営のホテルです。ガヤ空港とブダガヤ聖地を結ぶ幹線道路沿いに位置する、白を基調としたモダンな3階建て、ブダガヤで最も設備の整うホテルの一つです。部屋数数64、各部屋ともバスタブ付きで、床面積37㎡と部屋の広さも十分です。日本の仏跡団体旅行では、多くのお客様に当館をご利用いただいております。その他タイ仏跡巡拝の団体や、最近では欧米のお客様のご利用も多くなっています。お食事は、日本人の好みを優先して、インド料理・中華・洋食をブュッフェ(バイキング)スタイルで準備しております。当館裏には有機農法農園があり、一部食材はこの農園で栽培された野菜を提供いたしております。
*当館の所在するビハール州は、州内全てが州法で禁酒のため酒類の提供はありません。
ホテルスジャータ
大菩提寺の近く、日本寺のすぐ近くに位置する比較的設備の整うホテルです。ブダガヤでは老舗のホテルで団体旅行・個人旅行のお客様の対応にも慣れています。館内には日本式の大浴場があります。
*当館の所在するビハール州は、州内全てが州法で禁酒のため酒類の提供はありません。
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