霊鷲山
35歳で悟りをひらかれたお釈迦様は、80歳で涅槃に入られるまでの45年間、今日のビハール州とウッタル・プラディシュ州にまたがる地域を、遊行しながらひたすら法を説いて歩かれました。冬の期間に多く留まれたのが霊鷲山で、仏典に『釈尊は常に霊鷲山にあり』などとよく表現されています。
ラジギールは、ガンジス河によって形成された、ヒンダスタン大平原の中にあります。ヒンダスタン大平原は、ほとんど標高差のない平地の地形となっていますが、ラジギールは、平原地帯に突如現れた5つの山に囲まれた盆地の中にあります。この事は、古代マガダ国がラジギールに都を置くのに、国防上とても好都合でした。霊鷲山はラジギール盆地を取り囲む、ウダヤギリ、ソーナギリ、ヴァイバーラギリ、ヴィプラギリ、ラトナギリ(ギリは山の意味)の5山のうちの、ラトナギリの中腹にあります。19世紀にカニンガム等イギリス人考古学者が、次々仏跡地の場所を考古学的に証明していく中、霊鷲山の場所は解明されませんでした。これを解明したのが、西本願寺第二十二世大谷光瑞法主が率いる調査隊で、ジャングルの中にテントを張り、大唐西域に玄奘三蔵が残した、朝日と山との位置関係の一致する場所をつきとめ、1903年に霊鷲山の位置を確定しました。
お釈迦様は、この霊鷲山の香堂に留まられ、法華経・大無量寿経・観無量寿経・般若経などを説かれました。霊鷲山の香堂の下には、アーナンダ等弟子達が瞑想・修行したであろう洞窟が残ります。マガダ国の王ビンビサーラも、王舎城から霊鷲山に通じる山道を歩き、お釈迦様の説法を聞きに来ました。私たち巡拝者も歩むこの山道は、ビンビサーラ・ロードとも呼ばれます。霊鷲山の名の由来は、香堂から見える岩の形が、1羽の鷲の姿に見えるによります。
中国の五台山は、ラジギールの地形に似ていたため文殊菩薩の霊場に定められました。これが鎌倉時代・室町時代に日本に伝わり、臨済宗を中心とした五山の制へと発展しました
ラトナギリの稜線を山頂の方に進むと、白い大きな仏塔があります。これは1969年に藤井日達上人により建立された日本山妙法寺と呼ばれる日蓮宗のお寺です。
*霊鷲山の登山道はそれほど急ではありませんが、石段を1時間弱お歩きいただきます。足に不安のある方には、駕篭を準備(有料)させていただきますので、エスコートにご相談ください。
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(霊鷲山)
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(霊鷲山のご来光)
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(籠を利用いただけます)
竹林精舎
今から2500年の昔、古代インド十六大国のうちの1つマガダ国は、ラジギール(王舎城)に都を置き、ビンビサーラ王(BC542~491?)により治められていました。あるとき、ビンビサーラ王は悟りをひらく前のお釈迦様とラジギールで出会います。『皆あの者を見よ。美しく堂々としており、歩き方も申し分ない。いやしからぬ思想の持ち主にちがいない。』と言われ、使いを出し居場所を確認させました。使いから『大王様、あの修行者は山中の洞窟で虎のように座っておりました。』との報告を受け、その洞窟に出かけ『あなたは若くて前途がある。この国の軍事指揮官になれば、地位と財産をあげよう』と申し出ます。これに対しお釈迦様は、『私は釈迦族の王子だ。どうしてそのような物が必要であろうか』と述べられ、修行のため立ち去られました。その時ビンビサーラ王は、悟りをひらいた暁には再び王舎城を訪れられること、そしてお釈迦様に仕えること、釈迦様の説法を授かること、そしてその内容を理解できること、の4つを念願されました。
やがて月日が過ぎ、お悟りを得たお釈迦様は、王舎城を訪問しビンビサーラ王に法を説かれました。感激した王は、竹林園をお釈迦様に寄進し、そこにお釈迦様の教えに傾倒したカランダ長者が精舎を建立し、お釈迦様と弟子達が滞在するようになりました。これが竹林精舎で、竹林精舎は仏教史上最初の寺院という事になります。
竹林精舎の位置は、植民地時代のカニンガムらによる発掘調査では確認されていませんでした。これが確認されたのは、大唐西域記にしばしばこの池のほとりでお釈迦様が法を説いたという、カランダの池が、独立後インド政府考古局の調査によって発掘された事によります。
今日の竹林精舎は、カランダの池と近年復元された小さな精舎が、整備された竹林の中にあります。
ビンビサーラ王の牢獄
仏教に帰依し、お釈迦様の布教活動に多大な支援をしたビンビサーラ王ですが、その最後は残酷なものでした。というのも、一人息子であるアジャンタシャトル(アジャセ王)により牢獄に監禁され、食物を与えられず、飢えて最期をむかえるというものでした。これには以下のとおりのストリーがあります。
ビンビサーラ王と妻イダイケ夫人の間には、なかなか王子が産まれませんでした。ある時ビンビサーラ王が王子出生について、バラモンに占ってもらったところ『山中に1人の仙人が修行をしており、この仙人が死んだ時、仙人の生前の功徳で、ビンビサーラ王に王子が産まれるだろう』といわれました。それから月日が経過しますが、この仙人が死亡する気配など全くありませんでした。そこでビンビサーラ王は刺客を送り、この仙人を殺害してしまいます。その後間もなく占いのとおり、イダイケ夫人は妊娠しました。そこでもう一度バラモンに占ってもらったところ『非業の死をとげた仙人はあなたの事を怨んでいる。その子は仙人の怨念で親を殺すような人物になるであろう』と断言され、堕胎を進めました。ビンビサーラ王はこの事をお釈迦様に相談したところ、生命の尊さを説かれ堕胎する事は禁じられました。こうして産まれたのが、アジャンタシャトル(アジャセ王)です。アジャンタシャトルは王子として、何ひとつ不自由のない生活を送り成人します。ある時、アジャンタシャトルは、お釈迦様と敵対するディーバダッタという人物に、その出生の秘密を聞かされます。アジャンタシャトルは、この事に怒り、父であるビンビサーラ王を牢獄に幽閉し、食事を提供する事も禁じてしまいました。ところが、ビンビサーラ王は3週間経過しても死亡する事はありませんでした。これはイダイケ夫人が体にバターを塗り王と面会し王に提供していたためでした。この事に気づいたアジャンタシャトルは、イダイケ夫人の面会も禁じ、その7日後ビンビサーラ王はこの世を去りました。この事態に嘆き悲しむイダイケ夫人に説かれたのが観無量寿経です。
この悲劇の舞台がビンビサーラ王の牢獄で、霊鷲山の麓、霊鷲山から竹林精舎に向かう途中に位置します。今日は1辺およそ70メートルの石塁のみが残りますが、当時は7重の壁で囲まれた堅個な牢獄だったと伝えられています。
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(カランダの池/竹林精舎)
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(現在の竹林精舎)
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(ビンビサーラ王の牢獄)
ジーバカのマンゴ園
お釈迦様の時代、マガダ国にジーバカ(祇婆)という人物がいました。ジーバカはマガダ国に売春婦の捨て子として産まれましたが、ビンビサーラ王により才能を見抜かれ、当時の最高学府タキシラ大学(パキスタン・イスラマバード郊外)で医学を学び、医者として名をはせました。彼は、お釈迦様をはじめ多くの人々の治療行い、マガダ国の保健大臣にまで昇進しました。ただ、当時からカーストによる差別があり、自身も被差別民の出であった事から、被差別民の治療も積極的に行おうとしますが、これには限界がありました。そこで、身分による差別のない医療機関を設立したのが、ジーバカのマンゴ園と呼ばれる2,500年前の医療施設です。現在はビンビサーラ王の牢獄と同様、石塁が残るのみとなっていますが、発掘調査の結果、当時の医療器具や手術用具と思われる遺物が出土し、ここに医療機関があった事が立証されています。場所は、霊鷲山の登山口(駐車場)のすぐ近くに位置します。
アジャセ王のストゥーパ
竹林精舎の正面に、パトナへと続く幹線道路と、ラジギールの新市街へと続く道路のY字交差点があり、交差点合流部の広場に、崩壊したストゥーパが残ります。一説によるとこのストゥーパは、お釈迦様入滅後マガダ国に分配された舎利を納めたのがこのストゥーパだといわれます。このストゥーパを建造したのがアジャンタシャトル(アジャセ王)との伝承があるため、アジャセ王のストゥーパと呼ばれます。ただし、玄奘三蔵は大唐西域記の中で、このストゥーパはアショカ王によって建立されたもので、近くにアショカ王柱があり、その柱頭部には象の彫刻が載せられていたと記録しています。このアショカ王柱は現在のところ発見されていません。
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(ジーバカのマンゴ園)
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(アジャセ王のストゥ-パ)
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(ラジギール庶民の足タンガー)
戦車の轍(わだち)跡
ラジギールからブダガヤに向かう途中、王舎城を取り囲んでいた城壁が山の稜線に沿い連なるのをご覧いただけます。その総延長は41キロあり、城壁の平均の厚さは5メートルといいますから、当時軍事的にいかに緊張をしていたか、マガダ国は今のラジギールからでは想像もつかない大国であったかを、うかがい知ることができます。この城壁とブダガヤへ続く道路が交差するところに、戦車の轍跡の遺跡が残ります。今から2,500年の昔、ここを鉄の車輪をもつ車が数えきれない数往来しました。その結果、岩盤の上に幅1メートル強くらいの間隔をあけ、深さ30センチ前後の2条の溝が延々と刻まれる事になりました。マガダ国一帯からは、鉄鉱石が多く産出され、相当に高いレベルの鉄器生産が行われ、マガダ国の繁栄の原動力となっていました。
七葉窟(第一結集の地)
お釈迦様が説法で説かれた御教えは、当初は弟子達が記憶していただけで、体系的に文書として記録される事はありませんでした。それではやがて歪みが生じ、将来的に正しい教えが継承されない可能性があったため、弟子やお釈迦様に関係した人達が集まり、お釈迦様の教えを整理・記録をする結集(けつじゅう)という作業が行われました。結集は第1回のラジギール(BC477)、第2回のバイシャリ(BC377)、第3回のパータリプトラ(BC244)と合計3回が行われました。父を殺害するという最大の親不孝をはたらいたアジャンタシャトルは、やがて改心しお釈迦様に帰依するようになります。第1回結集は、このアジャンタシャトルが主催者となり、当時存命だったカーシャパやアーナンダなどの弟子達と高僧が500人集まり行われました。この1回結集が行われたのが、七葉窟です。七葉窟はヴァイバーラ山中腹にある奥行36メートルの自然にできた洞窟で、奥に行くほど狭くなっており、500人がここで一同に会したとはにわかに信じられないところではあります。
*七葉窟への道は長い山道で、霊鷲山と比べてもかなりハードです。また往復に相当な時間を要するため、通常のツアーでは訪れる事はありません。
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(王舎城の城壁)
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(戦車の轍跡)
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(七葉窟の入口)
酔象調伏の物語
ラジギールは、酔象調伏の舞台としても知られています。酔象調伏の具体的な遺跡は残っていませんが、ガンダーラ彫刻などに酔象調伏の場面を刻んだ作品が残ります。酔象調伏のお話は以下のとおりです。ラジギールにお釈迦様と敵対するディーバダッタという人物が居ました。彼は仏教教団からお釈迦様を引退させ、自らをその後継者にするよう強要したり、中道の考え方を否定し、出家者は極端に厳しい生活をするよう迫ったりしました。ある時、ディーバダッタは発情したアジャンタシャトル所有の象に酒をのませ、暴れさせお釈迦様の殺害しようとしました。酔象はラジギール街中で暴れ多くの人達を傷つけましたが、お釈迦様の前まで来るとおとなしくなり、ついにはお釈迦様に礼拝をしました。
ナーランダ大学跡
7世紀唐の都長安(西安)から天竺(インド)に旅した、玄奘三蔵はるかなる旅の目的地、ナーランダ大学跡は“ナーランダー・マハーヴィハーラ(ナーランダ大学)の考古遺跡として”として2016年ユネスコの世界文化遺産に登録されました。玄奘三蔵629年国禁を犯し唐を出国し、途中あちこち立ち寄りながら旅を行い、当時先進の仏教研究が行われていた、ナーランダで留学を開始したのは636年の事でした。ナーランダでは5年滞在し、最終的には副学長を務める事になります。玄奘が留学していた時の学長はシーラバトラで、彼はある時、『中国から1人の求道僧がやってくる。その求道僧にはきっちりと教えなくてはならない。』というお告げを天人から受ける夢をみました。この事を玄奘に告げると、この夢を見た年と、玄奘が長安を出発した年は、同じ年であった事がわかりました。
お釈迦様の時代、500人の商人がアムラ長者から購入したナーランダの土地に、精舎を建設しお釈迦様に寄進しました。この精舎ではその後も仏教研究が行われ、これを5世紀のグプタ王朝クマラ・グプタ1世が、本格的総合大学へと発展させました。この時代学生1万人余り、教授2千人を数えたといいます。学部は仏教学、ヴェダー学、医学、冶金学、数学、音楽学など合計12あったといいます。その後12世紀までナーランダ大学は、南アジアの最高学府の地位を保ち、様々な学問が行われました。しかし12世紀末にビハールに侵攻してきた、ゴール王朝のバクティヤール・ハルジーのイスラム部隊による焼き討ちにあい、1,500年以上の歴史に幕を下ろす事となりました。焼き討ちにあった際、大学の蔵書が燃え尽きるのに6か月を要したとも伝えられています。
今日、遺跡に残るナーランダ大学は、僧院の遺構とチャイティア(礼拝所)の遺構に大別できます。僧院は四角形の建物の中央に広間があり、これを取り囲むように4,5畳くらいの広さの小部屋が1辺に10部屋程度ならびます。中央の広間で大学の講義が行われ、これを取り囲む小部屋で学生達が日常生活を送っていました。チャイティアは礼拝のための施設で、遺跡内に数か所残ります。特に第3号寺院は、ひときわ高く聳え印象的です。チャイティアには仏龕が残りますが、イスラム勢力の破壊により、ほとんどの仏龕から仏像は紛失しています。
僧院は数百年に渡り、古い時代のものの上に、新しい時代のものが建設されてきました。発掘調査により、深く掘り下げられている箇所も多く残されており、遺跡が折り重なるように発展していく様子をうかがう事ができます。
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(僧院の遺構)
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(第3号寺院)
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(奉献ストゥパ群)
ラジギールでのご宿泊
インド法華ホテル
当館は、1984年エア・インディアと法華クラブが共同で、日本人のインド仏跡参拝お客様のため、セントール法華ホテルの名称で開業されました。その後法華クラブが会社更生法の適用を受けた際、当社がマーネジメントを引き受ける事になりました。全館が煉瓦造りなのは、仏跡地を構成する史跡が煉瓦造りなので、その文化的要素を継承したものです。2008年には新館を増築し、繁忙期でも多くのお客様の需要にお応えできるようにさせていただきました。館内には仏殿があり、朝・夕のお勤や瞑想にお使いいただいております。お食事は、朝・昼・夕の3食を日本食で提供させていただいております。
*当館の所在するビハール州は、州内全てが州法で禁酒のため酒類の提供はありません。
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