祇園精舎(サヘト)
お釈迦様は悟りと入滅の間、夏の時期を25回祇園精舎で過されました。仏教に“雨安吾”という言葉があります。これは、一定期間集団で修行する事をいいますが、もともとは、夏=インドの雨季に、お釈迦様と弟子達が祇園精舎に逗留した事に始まりました。これには、雨季になると道の上に多くの虫や小動物が出てきて、この時期にむやみに歩き回ると、こうした小動物を踏み殺す機会が多くなります。一所に留まっていれば、無用な殺生をしなくても済みます。この考え方は、当時仏教教団と対立したジャイナ教の考え方を取り入れたものでした。ジャイナ教では不殺生を重要な教義とし「青草害し小生物殺す」との申し出に対し、お釈迦様は「悪説にも一理あり」と雨安吾を行う事を決められました。
法顕が祇園精舎を訪れたのは404年で『佛国記』には98の伽藍があり、そのうちの1つは7層であったが鼠が燈明皿を蹴り、火災が起こり消失した事、などを記録しています。玄奘三蔵が祇園精舎を訪れたのは603年で『大唐西域記』にはすでに荒廃しており、煉瓦造りの寺院が1つと柱頭部に牛の彫刻を載せたアショカ王柱があった事、などを記録しています。その後インドから仏教が忘れ去られると、他の仏跡地と同様、荒廃の一途をたどりました。19世紀の後半以降、宗主国イギリス人考古学者らの発掘で遺跡の全容が明らかとなり、近年の仏跡参拝者の増加で整備が進み今日の姿となりました。
祇園精舎の遺跡は、かなりの広範囲に広がります。現存する遺跡群は、1世紀のクシャン王朝以降の時代のもで、残念ながらお釈迦様の時代のスダッタにより寄進された祇園精舎そのものは、特定されていません。遺跡入口から300メートルほど進むと菩提樹の大木があり、参拝者がこの菩提樹に礼拝をしています。この菩提樹は、このあたりには菩提樹の木が少ないと、目連が神通力で一夜のうちでブダガヤから運んできたものであると伝えられています。
菩提樹の大木からさらに進むと、ガンダクティー(香堂)があります。お釈迦様の母君マヤ夫人は、お釈迦様の誕生の1週間後に亡くなられました。悟りをひらかれたお釈迦様は、天上界の忉利天に居られるマヤ夫人に説法される事を念願されました。あるときこのガンダクティーから天上界に上がられ、3か月に及ぶ説法をマヤ夫人になされました。そして再び降りてこられたのが三道宝段の地サンカシャです。
3か月間お釈迦様が居られなくなったので、地上界は大騒ぎになり、コーサラ国のプラセナジト王はショックのあまり、病気になってしまいました。そこで、等身大のお釈迦様の像を作ったところ、王の病は治りました。伝説によると、この時に刻まれた仏像は、鳩摩羅什により中国に持ち込まれ、入宋していた東大寺の僧ちょう然(ねん)がこの像と983年に巡り合い、模刻を日本に持ち帰ったのが、京都嵯峨野の清涼寺の釈迦如来像であるといわれます。
ガンダクティーの裏の方向に歩くと、発掘調査が行われその後整備される事なく、放置されている遺跡群があります。これは1985~1989年に関西大学の網干善教教授が発掘し検出した遺構です。この発掘調査は、関西大学の100周年の事業で、仏教の遺跡をキリスト教徒・ヒンドゥー教徒以外の力で発掘しよう、という趣旨で行われました。検出されたのは、紀元前1世紀の巨大な沐浴池、数件のストゥーパ、煉瓦敷きの広場、僧院跡、グプタ王朝期の完全な形の井戸などでした。当初は『大唐西域記』に記録がある、牛の像を柱頭部に載せたアショカ王柱が発見できるかと期待されましたが、アショカ王柱の発見にはいたりませんでした。
-
-
(ガンダクティー)
-
-
(目連の菩提樹)
-
-
(関西大学発掘沐浴場跡)
舎衛城(マヘト)
古代北インドには16の国(十六大国)があり、その中で最も勢力が強かったのがコーサラ国でした。コーサラ国はもともと、アヨーディアに都を置きましたが、お釈迦様の時代には舎衛城に都を移していました。祇園精舎近くの舎衛城(マヘト)は、コーサラ国の都の遺跡です。広大なエリアの遺跡は、ほとんどが発掘されていない荒地になっていますが、法顕が5世紀初めにこの地を訪れた時には、コーサラ国の王プラセナジト王の宮殿が残っていた事を記録しています。プラセナジト王はもともとジャイナ教を信仰していましたが、スダッタが祇園精舎を建立しお釈迦様が訪れるようになってから、仏教を信仰するようになりました。
舎衛城(マヘト)入口の近くにパッキクティと呼ばれる、不規則な形をしたストゥ-パーがあります。このストゥ-パーは1世紀頃建造が開始され、その後何度かの拡張が行われたためこういう形となりました。法顕や玄奘はこのストゥ-パーの事を、アングリマーラのストゥ-パーと紹介しています。これは次のとおりの事件が舎衛城で起きたためでした。
アングリマーラはタキシラに留学経験もある秀才で、舎衛城で師匠であるバラモンに仕えていました。彼は師匠の妻にもかわいがられ、その関係を怪しまれた事から、追放されてしまいます。行くところのないアングリマーラは、悪いバラモンに100人を殺し、切断した指を糸でつなぎネックレッスにするようそそのかされました。そして99人を殺害100人目の殺害をはかろうとします。その時そこを通りかかったのがお釈迦様でした。アングリマーラは「動くな」とお釈迦様に言いました。お釈迦様はアングリマーラに「私は止まっている。動いているのはお前だ」と一言いったところ、途端にアングリマーラはひれ伏し、刃物を捨てお釈迦様に救いを求めました。プラセナジト王は、軍隊を出してこの殺人鬼を成敗しようとしましたが、その時アングリマーラはすでにお釈迦様の弟子となっていたため、命は助けられました。遺族から石をぶつけられたり、なぐられたりしましたが、お釈迦様は、アングリマーラにただただ耐えるようにとお説きになられました。
プラセナジト王の仏教への改宗以降、ジャイナ教徒によるお釈迦様への中傷が激化し、神通力を披露するよう迫りました。お釈迦様は舎衛城でこれに応え、一度に1,000の姿になったり(千仏化現)、足元から水・頭から炎を出したり(双神変)、マンゴの種を1日で大木にしてみたり、などされました。これらを舎衛城の奇跡といいます。
祇園精舎と舎衛城の中間に、牛頭天王を祀る祠がります。牛頭天王とは、天然痘など疫病を防ぐ、仏教以前の時代からの土着神です。645年に舎衛城出身の法道仙人は、播磨の国にその分身が持ち込み、姫路市の広峰神社に奉り、人々の治療に専念しました。その後、その名声が京都に伝わり、牛頭天王は京都祇園の八坂神社に奉られる事になりました。京都の夏の風物詩祇園祭の山鉾巡行で町を行く山車は、もともとインドの祭りで使われていたラータで、牛頭天王と同時に日本に伝わったものです。
-
-
(アングリマーラのストゥパ)
-
-
(牛頭天神の祠)
-
-
(祇園精舎の風景)
ジャイナ教について
仏教とジャイナ教は密接な関係があります。ジャイナ教の開祖マハビーラは、ビハール州バイシャリ近くのクング村で生まれました。お釈迦様とほぼ同じ時代の事でした。30歳で出家、12年間の苦行の末、悟りの境地ジナを得て、72歳で死去するまで、北インドで遊行し、ジャイナ教の教えを説いてまわりました。仏教側から見た正しい道を“内道”、正しくない道を“外道”といいます。当時6人の仏教以外の思想家がいて彼らの事を“六師外道”と呼びました。マハビーラも“六師外道”のひとりに数えられています。
ジャイナ教には非常に厳しい戒律があります。その中心が、不殺生と無所有です。不殺生を貫くため、ジャイナ教徒は地上の野菜のみ食べる事が許される菜食主義であり、玉ネギ・ジャガイモ・ニンジン・大根など根菜類も食べません。これは、根菜を収穫する時、土中の小動物の命を奪わないためです。
また無所有の教えも徹底しており、ジャイナ教僧侶は、白衣派と裸行派のどちらかに属し、白衣派は薄い布の服を着る事のみが許され、裸行派は衣服も含め一切の所有が禁止されています。現在でも裸行派の僧侶は、南インドを中心に一糸まとわぬ素っ裸で生活をしています。今日信者は450万人程度で、人口の0,5%にも満たない少数派の宗教ですが、主に第三次産業に従事し経済的に豊かな人が多い宗教です。
祇園精舎でのご宿泊
パワンパレス
以前はホテル事情が悪かった祇園精舎ですが、最近は比較的設備の行き届いたホテルもできてきました。パワンパレスもそのうちの1つで、全客室数47と比較的大きなホテルです。お部屋にテレビや冷蔵庫がない等、設備的に限界はありますが、快適にご滞在いただけるホテルです。
|