インダス文明の時代(初期文明)BC2500~1700
エジプト文明・メソポタミア文明・黄河文明と並ぶ世界4大文明の1つインダス文明は、インドで花咲いた初期文明です。有名な遺跡としてモヘンジョダロ(パキスタン)、ハラッパ(パキスタン)、ロータル(グジャラート州)などが知られており、インダス河流域に点在します。(パキスタンは、今はインドとは別の国ですが、1947年の独立の際、イギリスによって引かれた強制的な国境線で分断されるまで、別の国という意識はありませんでした。)
初期インダス文明の遺跡は、日干し煉瓦で建築物が築かれ、後期インダス文明の遺跡では焼成煉瓦で建築物が築かれました。インドではこの時代から今日に至るまで、脈々と基本的建材には煉瓦が使用されています。ヨーロッパでは古代ギリシャ・ローマ時代から今日まで石材を基本的建材としており、東洋では木材が基本的建材としているのと対照的です。
インダス文明の時代には農耕が開始されており、狩猟時代に幕が下ろされ、都市国家が成立していました。政治は神官が中心に行い、遺跡から多くの印象が発掘されている事から、契約社会が成立していた事が伺えます。また石器と青銅器が併用されて使われた金石併用時代に位置づけられ、解読はされていませんがインダス文字が使用されていました。また、興味深いのは、当時沐浴場が公共施設として使用されており、今日のインド人の沐浴の習慣の原点をここに見る事ができます。
日本では弥生時代にインダス文明とほぼ同じ文化レベルを迎えますが、弥生時代の開始は紀元前500年頃(九州では紀元前1000年頃ともいわれます)の事です。
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(モヘンジョダロ)
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(沐浴場/モヘンジョダロ)
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(中央の高い建造物は後世のストゥーパ))
アーリア人の流入 BC1500年頃
インドにはもともとどらドラヴィタ人が住んでいました。ドラヴィタ人の身体的特徴は、背が低く、丸顔で肌の色が黒いところにあります。紀元前1500年頃、中央アジアからアーリア人が北インドに流入します。もともとのインドの民ドラヴィタ人は、南インドに追いやられ、この結果、北インドにはアーリア人の特徴である、背が高く顔だちに彫があり肌の色が白いアーリア系の人が多く、南インドにはドラヴィタ人の特徴をもつ人が多いという事になりました。
アーリア人が土着のドラヴィタ人を支配するために成立させたのがバラモン教です。バラモンとは司祭階級の意味で、支配階級が土着民を支配する構図を作り上げました。バラモン教には特定の絶対神は存在せず、自然神を崇拝の対象としていました。教義は、生き物は輪廻転生を繰り返し、善行により輪廻から解脱できるというもので、この考え方は仏教・ジャイナ教・ヒンドゥー教へと受け継がれます。
バラモン教と同時に成立したのが、カースト制度のもととなるベルナ制度です。このとき、バラモン(僧侶)、クシャトリア(王侯貴族)、バイシャ(平民)、シュードラ(隷属民)の階層が生まれました。
仏教など新思想流行 BC500年頃
紀元前5世紀頃インド宗教界に大きな動きがありました。仏教・ジャイナ教の成立です。その当時インドには小国が乱立していました。釈迦こうした小国の1つシャカ族の王子シッダルタとしてルンビニ(ネパール)の地で降誕しました。やがて宮殿での華美な生活に嫌気がさし出家し、35歳の時ブダガヤの菩提樹の下で瞑想の末悟りを開き、仏教が成立させました。釈迦ゆかりの地として、降誕の地ルンビニ、悟り(成道)の地ブッダガヤ、最初の説法(初展法輪)の地サルナート、死去(涅槃)の地クシナガラが、特に重要な聖地として四大聖地に数えられます。
釈迦の入滅(涅槃)後、南インドを含む広い範囲で仏教は信仰され、数多くの仏教芸術の遺産が、今日に残されています。しかし、徐々に仏教そのものが多神教ヒンドゥー教の中に吸収され、12世紀のパーラ王朝時代末期にはインドから仏教が消滅してしまいます。
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(釈迦降誕の地ルンビニ)
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(釈迦悟りの地ブッダガヤ)
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(釈迦涅槃の地クシナガラ)
ジャイナ教開祖マハービーラは、ビハール州バイシャリ近くのクング村で生まれました。お釈迦様とほぼ同じ時代の事でした。30歳で出家、12年間の苦行の末、悟りの境地ジナを得て、72歳で死去するまで、北インドを遊行し、ジャイナ教の教えを説いてまわりました。仏教側から見た正しい教えを“内道”、正しくない教えを“外道”といいます。当時6人の仏教以外の思想家がいて彼らの事を“六師外道”と呼ばれました。マハービーラも“六師外道”のひとりに数えられています。
ジャイナ教には非常に厳しい戒律があります。その中心が、不殺生と無所有です。不殺生を貫くため、ジャイナ教徒は菜食主義であり、玉ネギ・ジャガイモ・ニンジン・大根など根菜類も食べません。これは、根菜を収穫する時、土中の小動物の命を奪わないためです。
また無所有に関しても徹底しており、ジャイナ教僧侶は、白衣派と裸行派のどちらかに属し、白衣派は薄い布の服を着る事のみが許され、裸行派は衣服も含め一切の所有が禁止されています。
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(ジャイナ教教祖マハビーラ)
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(ジャイナ教寺院/ジャナックプール)
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(ジャイナ教寺院/コルカタ)
マウリヤ王朝 BC320-BC180
紀元前330年ギリシャのアレクサンドロス大王は、繁栄を謳歌していたアケメネス朝ペルシャを滅ぼし、さらなる東進を目指しました。しかしアレクサンドロス大王はバビロンで客死し、インドを支配するには及びませんでした。この時代のインドは、初代チャンドラ・グプタにより興されたマウリヤ王朝が統治していました。インダス河・ガンジス両河にまたがる広大な地域を支配する、インド歴史上初めての大帝国の出現です。3代目のアショカ大王は、武力による領土拡大を繰り返しましたが、カリンガー王国との戦で、両軍の膨大な犠牲をみて、自らの行いを悔い改め、仏教に深く帰依して法による統治を目指すようになりました。
マウリヤ王国の首都はパータリプトラ(パトナ市内)におかれ、各国の大使館を都の中におき、友好的な海外交流が行われました。道路整備、灌漑整備、も積極的に行われ、国と国を結ぶ主要街道には、沿道に木が植えられ、旅人が道に迷う事のないようにしました。これが街路樹の起源だとされます。また、アショカ王が仏教布教のため、釈迦聖地に仏教に関係する動物の石像を柱頭部に載せ、仏教の戒律や歴史を刻印して建立したのがアショカ王柱です。
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(マウリヤ王朝の都跡/パータリプトラ)
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(アショカ王の時代考案された街路樹)
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(アショカ王柱/ブッダガヤ)
シュンガ王朝・サータヴァーハナ王朝 BC200~A50
アショカ王の死後、マウリヤ王朝は国力が衰え滅亡します。次にシュンガ朝をむかえますが初期こそ国力があったものの、やがて衰退しBC1には滅亡します。次に、サータヴァーハナ朝の時代となります。シュンガ朝~サータヴァーハナ朝の時代は、この他にも多くの小国が乱立し、政治的にも不安定な状況が続いた時期でした。
この時代のインド美術遺産として、バールフット・ストゥーパ、サンチー・ストゥーパが知られています。ストゥーパとは、お釈迦様の舎利(遺骨)を納める施設の事で、釈迦入滅(死亡)直後の舎利八分骨により8か国に築かれました。アショカ王の時代舎利の再分割が行われ、各国でストゥーパ建設が盛んに行われるようになり、サータヴァーハナ朝の時代ピークを迎えます。同時期のストゥーパは、土饅頭型の塚の部分と、それを囲む欄楯(垣根)で構成されていました。欄楯には仏教説話などが刻まれ、当時の仏教の精神世界感を伺う事ができます。この時代は仏像が考案される前なので、欄楯に刻まれた仏伝図には、お釈迦様のかわりに法輪・菩提樹・ストゥーパ・仏足石などの象徴で表現されました。こうした仏伝図をブッダなき仏伝図といいます。
この時代デカン高原東部では、アジャンタなど仏教の前期石窟寺院が造営されはじめました。アジャンタ石窟寺院は前期石窟寺院群(BC1~AD2)と後期石窟寺院群(AD5~AD8)の2つの時代にわかれ建設されました。前期石窟寺院は、仏像考案の前なので、塔院窟の本尊は仏像彫刻のないストゥーパのみで表現されています。
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(サンチー第1ストゥーパ)
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(猿王奉蜜のパネル/サンチー)
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(前期チャイティア窟/アジャンタ)
写真中央の彫刻は、バイシャリでの猿王が釈迦にマンゴの蜜を奉納する場面(猿王奉蜜)です。作品左上の菩提樹が釈迦の象徴で、その右下に蜜の入った鉢をもつ猿王、その右に奉納を終えガッツポーズで喜ぶ猿王が描かれています。
クシャン王朝 AD50-AD250
クシャン王朝を樹立させたのはイラン系の中央アジアの遊牧民です。最盛期のカニシカ王の時代、都はペシャワール(パキスタン)におかれました。この時代、ギリシャ系の人々がガンダーラ(パキスタン北部)に流入し、東洋の文化と西洋の文化の融合が開始されました。その結晶が仏像彫刻の開始です。お釈迦様の入滅(死去)後約500年間、仏教の世界に仏像は存在しませんでした。これはあまりに尊いお釈迦様を偶像にする事への畏怖があったためでした。インドの精神文化である仏教と、ギリシャ人の石造彫刻文化の結合で、初めてガンダーラで仏像彫刻が開始されたわけです。
ほぼ時を同じくしてインドのマトゥーラ(デリーとアグラの間)でも、別の様式のマトゥーラ仏の彫刻が開始されます。両様式の関係は不明な事が多いのですが、仏像表情がガンダーラはヨーロッパ人を思わせる深い彫りが特徴なのに対し、マトゥーラ仏は丸い顔立ちが特徴でアジア的な要素を感じます。
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(ガンダーラ仏)
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(双頭の鷲のストゥーパ/ガンダーラ・タキシラ)
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(マトゥーラ仏)
グプタ王朝 AD320-AD550
クシャン朝の衰退後急速に勢力を持ったのが、チャンドラ・グプタが興したグプタ王朝です。都はマウリヤ王朝と同じパータリプトラ(パトナ)におきました。支配地域は北インド全域、ほぼマウリヤ王朝の時代と重なる広大なエリアでした。グプタ王朝は今までの王朝が仏教を主体としていたのに対し、ヒンドゥー教を主要宗教とします。ただ仏教に対して寛容で庇護の立場をとりました。
公用語はサンスクリット語で、文化・科学の面で大きな進展のあった時代です。7世紀唐の国禁を犯し渡印した玄奘三蔵が、仏法を学んだナーランダー大学(ラージギール)が創立されたのもこの時代です。ナーランダー大学は、当時世界でもトップレベルの大学でした。
デカン高原では、仏教の後期石窟寺院が造営されはじめました。前期とはちがい、仏像が彫刻される塔院窟と、アジャンタ第1窟・第2窟など壁画が描かれる僧院窟があらわれます。
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(ナーランダー大学跡)
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(後期僧院窟/アジャンタ)
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(持蓮華菩薩/アジャンタ1窟)
パーラ王朝 AD750-AD1162
8世紀に北東インドのベンガル・ビハールに興ったのがパーラ王朝です。パーラ王朝の時代は、仏教がヒンドゥー教に吸収される形で弱体化していきます。そんな時代にパーラ王朝は熱心に仏教を保護し、インドで最後の仏教芸術がこの時代に花開きました。仏教の形は徐々に密教化し、チベット仏教・東南アジアの仏教に大きな影響を与えました。
この時代から優れたヒンドゥー教建築が造営されるようになります。7~8世紀の南インド・パッタダッカルの遺跡(世界遺産)で、ヒンドゥー教の2大建築様式シカラ様式とゴプラム様式が確立しました。シカラとは山の意味で、寺院本殿に山の形のような屋根を築きます。北インドに多くみられる様式です。ゴプラムとは門塔の意味で、寺院入口部分に高い門塔を築き、これに極彩色に彩ります。南インドや南インドからヒンドゥー教の伝わったマレーシア・シンガポールに多くみられる様式です。
デカン地方で仏教石窟以外の、ヒンドゥー教石窟・ジャイナ教石窟の建設が開始されたのはこの時代からです。エローラ第16窟カイラサナータ寺院の着工は8世紀後半で、高さ30m,幅46m,奥行き85mの神殿は岩山からを掘り出し伽藍を配した、壮大なシヴァ神の神殿です。
北部インドのカジュラホの寺院群は10世紀この地を治めたチャンデラ王朝の時代に造営されました。寺院の様式は本堂部分に高い屋根をもつシカラ様式で、このシカラの壁面にエロチックなミトゥーナ彫刻がある事で知られています。寺院にミトゥーナ像が彫刻されたのは、実態を表す男性と現象を表す女性の合体に重要な意味があるというヒンドゥー教の教義からきています。
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(カイラサナータ寺院/エローラ)
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(カジュラホのシカラ様式寺院)
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(カジュラホ/ミトゥーナ像)
デリー諸王朝時代AD1206-AD1526
イスラム教は7世紀アラビアの地で起こりました。それから2世紀をかけ東にはイラン・アフガニスタンまでイスラムは広がりました。インドにイスラム教が伝わるのは、クトクブッディーン・アイバクが13世紀初頭ヒンドゥー教の諸王(マハラジャ)を平定して北インドを統治したときでした。クトクブッディーン・アイバクは奴隷身分の軍人出身であったため、成立した王朝を奴隷王朝といいます。その際ヒンドゥー勢力への勝利を記念し建てられたのがデリーのクトゥブミナール(世界遺産)です。クトブミナールはもともとモスクとして建設されました。モスク部分は崩壊して一部の壁面やアーチ型屋根のみが残ります。遺跡の中心になる塔は、このモスクに付随して建設されたミナレットです。ミナレットとは礼拝時刻に僧侶が聖句(アザーン)を朗誦し、礼拝時刻を伝えるための施設です。クトブミナールはヒンドゥー教寺院を取り壊し、その石材を流用して建設されました。クトブミナールをよく観察すると、偶像崇拝固く禁じるイスラム教のモスクではありますが、ガーネシア像やミトゥーナ像などヒンドゥー教の神々の石像がそのまま残っている部分があります。このような例は世界各国のイスラム教モスクでほとんどなく、興味深いところです。デリー諸王朝は奴隷王朝から、ハルジー王朝、トウグルク王朝、サイイド王朝、ロディー王朝まで計5王朝があり、いずれもデリーに都をおきました。
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(クトゥブミナール)
ムガール王朝時代 AD1526~AD1858 (実質的には17世紀末で衰退)
ムガール帝国は、16世紀北インド~デカン高原のほぼインド全域を支配下においたイスラム教の帝国です。初代バーブルは、チンギスハーンの血統をひくモンゴル系遊牧民の出身でした。バーブルは中央アジアから国を追われる形で、アフガニスタンのカーブルに都をおきます。以降南に支配地域を広め、パキスタンのラホールを落とし、パニパトの戦いでロディー王朝を倒しデリーとアグラにムガール帝国の基礎を築きました。
2代目フマユーンの時代、国力が衰え一時は滅亡状態になりますが、国力を回復させ北インド帰り咲きました。
3代目アクバルの時代、帝国領土を東はベンガル、南はデカン高原にまで拡大させ安定期をむかえます。アクバルには優れた政治能力があり、イスラム教絶対支配の体制ではなく、他の宗教にも寛容でした。彼には3人の妃がおり、一人はイスラム教、一人がヒンドゥー教、一人がキリスト教でした。またイスラム教徒以外に課税されたジズヤを廃止し、この時代南インドを多く訪れたヨーロッパからのキリスト教宣教師ともよく交流していやと伝えられます。
後継者男子になかなか恵まれなかったアクバルは、ファテプールシクリの預言者に「間もなく男の子供に恵まれるだろう」と予言を受け、ヒンドゥー教徒の妻との間に王子を授かります。この王子が4代目ジャハンギールです。王子誕生に喜んだアクバルは、ファテプールシクリに都を一時遷都しますが、水不足のため14年後にラホールに都は移されました。ジャハンギールは病弱で、後半酒びたりになり妃ヌールジャハーンが夫にかわり政務を行いました。
5代目シャージャンの時代に、最も政治的に安定した時期を迎えました。この時代インド・ムガール建築の絶頂期を迎えます。主な作品として、ラールキラー(デリー城)、ジャーマ・マスジド(デリー)、タージマハールがあげられます。アクバルの時代にも多くの建造物が造営されましたが、アクバルが赤砂岩を石材に多用したのに対し、シャージャハンは白大理石を多く取り入れました。この2人が居城としたアグラ城には、それぞれの宮殿が残り、その違いを比べる事ができます。
タージマハールは最愛の妃ムムターズに贈られた地球上で最も華麗な墳墓です。イスラム建築では、入口からメインの建物・庭園・装飾に至るまですべて左右対象にするのが絶対原則ですが、タージマハールにはこの原則が守られていない場所が1つあります。それは、タージマハール・メインドーム中央の被葬者ムムターズの墓標の左にある、後から設けられたやや大きめの墓標です。皇帝シャージャハンの構想では、タージマハールとヤムナー河をはさむ対岸に、黒大理石でできたもう1つの黒いタージマハールを建設し、自身の墓をここに築く事でした。タージマハール建設に、あまりに大きな出費をしたシャージャハンは、6代目アウラングゼーブによりアグラ城に一室に幽閉され、タージマハールを眺め、黒のタージマハールの夢を見ながら最期を迎えます。哀れなシャージャハンは最愛の妃ムムターズの横に埋葬され、左右対象の原則を破る墓標がここに築かれました。
6代目アウラングゼーブは首都をアジャンタ遺跡の近くオーランガバードに移します。オーランガバード都市名の由来は遷都したアウラングゼーブから来ています。アウラングゼーブの時代を境に、ムガール帝国は衰退し歴史上の活躍はほとんどなくなります。帝国は1858年まで衰退しながらも存続し、17代目バハードゥルシャー2世が、宗主国イギリスの裁判でミャンマーへの流刑が言い渡され、滅亡の時を迎えます。3代目アクバルの時代が、徳川家康が江戸幕府を興した時代、ムガール帝国の滅亡1858年は大政奉還1867年の9年前の事です。ムガール帝国は徳川江戸幕府とほぼ同じ時代に成立し、同じ時代に終焉を迎えた帝国でした。
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(フマユーン廟/デリー)
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(ファテプールシクリ)
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(アグラ城)
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(シャージャハンとムムターズ)
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(タージマハール)
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(ジャーママスジット/デリー)
イギリス植民地時代AD1857~AD1947
15世紀中ごろより航海技術の発展で、欧州では大航海時代を迎えます。東西物流は、陸のシルクロードから海のシルクロードが主役となりました。ヨーロッパ列強はアフリカ喜望峰をまわり、南インド胡椒海岸を経由し、アジアにキリスト教や西洋文化を伝え、交易も行われるようになりました。当初アジア進出の主流は、スペインやポルトガルでしたが、やがてイギリス、オランダ、フランスへと移っていきます。
17世紀初頭、国王の権限で独占的通商権を得た東インド会社が、イギリスとオランダに設立されました。彼らはインドから胡椒や木綿を、中国から茶をヨーロッパにもらし、インドで生産されたアヘンを中国で販売するなどしていました。
1857年インド民衆が東インド会社に対して蜂起したセポイの反乱の後、イギリスは、東インド会社を解散させ、イギリス国王ビクトリア女王がインド皇帝を兼ねる、イギリス領インド王国を樹立させました。これまでの経済的支配でなく、政治的にも服従させる植民地時代の始まりでした。
18世紀後半産業革命をなしとげ、機械での生地の大量生産ができるようになったイギリスに必要だったのは、大量の原材料である綿花と、巨大な市場でした。その両方が揃っていたのがインドです。イギリスは綿花の大量輸送のため、世界で最も輸送力のある広軌(線路幅1676mm)鉄道網を、全インドに張り張り巡らされました。インドから輸出され、イギリスの工場で商品に加工された綿織物は、再びインド国内の鉄道で市場に送られました。このプロセスで、従来家内工業で行われていたインド綿の紡績は壊滅し、商品価値のあるものを押し売りされるインド人は、貧困に追いやられるだけでした。
イギリスからの独立
東インド会社の進出から350年、イギリスの植民地支配から100年、激動の20世紀に入り、世界各地で同時に発生した植民地支配からの独立運動の流れは、インドでも巻き起こります。インドを独立運動へと導いたマハトマ・ガンディーの活動は、他のアジア・アフリカの独立運動とは形態が異なるものでした。マハトマ・ガンディーの独立運動は、非暴力と不服従に代表されます。同じ時代の他の独立の指導者は、武力・革命で独立を勝ち取りましたが、ガンディーは決して武力を行使する事はありませんでした。ただ人間としての権利は主張し、理不尽な宗主国の要求には不服従で戦いました。
その1つの運動として1930年の塩の行進が知られています。当時イギリスが塩の専売の権利を持っていたのに反抗し、ガンディーは故郷アメーダバードを78人の随行員を従えムンバイへ出発しました。ムンバイに到着した時には行列は数千人の規模になりました。行進の中でガンディーも含め何人もの参加者が投獄されましたが、暴力的抵抗をせずムンバイの海岸に至り、一行はアラビア海の塩を手にしました。まさに非暴力と不服従が合致されたのが塩の行進でした。
ガンディーの独立の目標は、全ての宗教と全ての階層の人が、平等に1つの国として独立する事でした。当時のインドには東部と西部にイスラム教徒が多く居住し、イスラム教徒の多くはイスラム教国家の分離独立を目指していました。その独立の指導者がパキスタンの建国の父ジンナーです。イギリスは1947年インドに独立を許します。ただし、東部・西部のイスラム教の多い地域は東パキスタ・西パキスタンとして分離独立で、ガンディーの目指した1つのインドとは違うものでした。
その際、パキスタン国内のヒンドゥー教徒はインドに、インド国内のイスラム教徒はパキスタンに難民として移りました。大量の難民の発生と短期間に長距離の徒歩での移動で、悲劇が随所で起こりました。東と西2,000キロ離れた東西パキスタンは、1つの国としては存続できず、東パキスタンはやがてバングラデシュとして独立します。
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(糸を紡ぐガンディー)
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(塩の行進の先頭を歩むガンディー)
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(イギリス植民地時代の産物の鉄道)
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