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バイシャリのみどころ

 

 

 

バイシャリ遺跡群
 ビハール州の州都パトナは、ガンジス河の南に広がる人口160万人あまりの大都市です。パトナからバイシャリなどのガンジス河の北側の仏跡地を目指すには、全長5,575mのガンジス河大橋梁を、ガンジスのスケールの大きさを体感しつつ渡る事になります。橋梁が開通したのは1982年でそれ以前は、連絡船で1時間30分をかけ河を渡っていました。この連絡船は、お釈迦様がしばしばここを渡られた事から、ゴータマの渡しと呼ばれていました。

 バイシャリの遺跡群からは、紀元前2世紀から紀元後5世紀のグプタ王朝期までの、僧院・ストゥーパ・奉献ストゥーパなどが折り重なるように発掘されています。柱頭部に獅子の像を載せたアショカ王柱も1本残りますが、このアショカ王柱については、アショカ王以降の時代につくられたとの説もあります。
 竹林精舎と祇園精舎を拠点に遊行し、教えを広めたお釈迦様は、何度となくバイシャリに立ち寄られました。ある時、お釈迦様一行が托鉢をしていると、猿の王がマンゴの蜜を集めお釈迦様に供養しました。この猿王奉蜜の話をテーマにした彫刻は、ガンダーラにもみられますが、サンチー第1塔の北のトラーナ(門塔)の作品は秀作です。サンチーの彫刻は、仏像が考案される以前に作成されたため、お釈迦様を菩提樹・法輪・仏足石・ストゥーパなどで表現しました。これは『本質は、修行によって人それぞれ心の中で理解するもの』という古代インドの考え方があった事と、あまりに尊いお釈迦様を、偶像化する事への抵抗があったためでした。このサンチーの猿王奉蜜の作品では、お釈迦様をパネル左上の台座の上の菩提樹として表現しています。またサンチーの彫刻では、時間的に別々の場面を、1つのパネルの中に表現するケースが多くみられます。この作品では、鉢に入れた蜜をお釈迦様に捧げている場面と、それをお釈迦様に受け取ってもらい喜ぶ猿王が、1枚のパネルの中に表現されています。その喜び方が、現在のガッツポーズと全く同じなのには驚かされます。
*サンチーはアグラの南約500キロに位置し、このサンチーの作品をバイシャリでご覧いただけるわけではありません。



リリック・ストゥーパ
 涅槃に入られたお釈迦様は、荼毘に付され舎利は下記の八国に分けられました。

    1、クシナガラのマルラ族    2、マガダ国のアジャンタシャトル王  3、バイシャリのリッチャビ族
    4、カピラ城のシャカ族     5、アラカッパのプリ族        6、ラーマガーマのコーリヤ族
    7、ヴェータデーバのバラモン  8、バーヴァーのマルラ族
 このうち、バイシャリのリッチャビ族が持ち帰った舎利が納められるのが、リリック・ストーパです。1957年に発掘調査が行われ、石製舎利容器、小さなほら貝、ガラス玉2個、銅貨1枚などが検出されました。舎利容器の中には人骨が納められていました。お釈迦様の入滅後、八国に分けられた舎利のうち、龍王がストゥーパを保護し、開ける事のできなかったラーマガーマをのぞく、7か所のストゥパーから、アショカ王は舎利を発掘し、84,000箇所に分けて再埋葬したと伝えられます。この舎利容器に納められていた舎利は、アショカ王により発掘された際、取り出された舎利の残りだと考えられます。リリック・ストゥーパは貴重な遺跡であるにもかかわらず、発掘後雨ざらしの状態で長い間放置されていました。今はトタンの屋根がつけられていますが、直径12メートルのストゥーパの基壇の部分のみが、かろうじて残ります。
 リリック・ストゥーパはバイシャリ遺跡群から約3キロ離れた場所にあり、車で約5分を要します。リリック・ストゥーパの正面に、池をはさみ白色の日本山妙法寺の仏塔があります。


バイシャリ郊外のみどころ


ケサリア

 バイシャリの北西50キロ、クシナガラへ向かう道の途中にケサリアの遺跡はあります。ケサリアのストゥーパの存在は古くから知られていましたが、1998年インド政府考古局によりその一部の発掘調査が行われ、各方面からの関心を集める事となりました。ケサリアのストゥーパが注目されたのは、その規模の大きさにあります。対比される8世紀に造営されたインドネシアのボロブドールのストゥーパは、基壇の1辺が115m・高さ42mであるのに対し、ケサリアのストゥーパは、創建時には直径122m・高さ45mあったと推定され、わずかではありますが大きさで、ボロブドールのストゥーパを上回ります。現在のケサリア・ストゥーパは、1934年に起きた地震で、大きく崩壊し高さは32mとなっています。ストゥーパの形状は、円形のプランを呈し、階段状に6層のテラスがあり、基壇より2層目から4層目には、テラコッタ仏像を納める仏龕(ぶつがん・仏像を安置する空間)を配するという、独特の構造をしています。発掘調査が終了しておらず、正式な報告書も作成されていないため、不明の部分が多くありますが、AD200~AD750のいずれかの時期に建立されたと推測されています。大型ストゥーパの側面に仏龕があるというのは、他にほとんど例がなく、この仏龕が規則的な幾何学模様を呈し、曼荼羅にも通じるところがあると思われます。この事から、ケサリア・ストゥーパが現在の外観となったのは、インドで仏教が密教化していく時代、すなわちパーラ王朝の時代(8世紀)であるとこの冊子作成者は考えています。



クムラハール(鶏園寺)*パトナ市内
 BC330年アレクサンドロス大王は、ペルセポリスに攻め込みアケメネス朝ペルシャを滅ぼし、さらに東進し、ガンダーラなどインダス河流域も支配下に組み入れました。しかし形勢は逆転し、アレクサンドロス大王はバビロンで客死し、シリア王セレウコスがこれらの地を支配するようになりました。ちょうどこの時期、インドではチャンドラ・グプタがマガダ国を滅ぼし、セレウコスと象500頭と引き換えに、ヒンドゥークシ山脈以南・西北インド一帯を入手し、マウリヤ王朝を興しました。マウリヤ王朝はパータリプトラ(現在のパトナ)に都を置きます。

 マウリヤ王朝3代目アショカ大王は、祖父から引き継いだアフガニスタンから北インド全域の領土に加え、カリンガー国の領地だったベンガル湾岸地域も支配下に置こうと、カリンガーの戦を仕掛けます。アショカ大王は、この戦いで戦争の悲惨さを実感し、仏教に帰依しダルマ(宇宙の法)による政治を行うよう、路線変更を行いました。
 パータリプトラの中にあるクムラハール(鶏園寺)の遺跡から、研磨された光沢のある80本以上の列柱をもつ“百柱の間”が発見されました。その形状は、ペルセポリスのアパダーナ(謁見の間)と類似しており、アショカ大王がすすめた国際交流の結果、アケメネス朝ペルシャと活発な交流があった事を示しています。このクムラハールにて、BC244年アショカ王の呼びかけで第3結集が行われ、1000人の僧侶が招集され、経・律・論がまとめられました。


バイシャリでのご宿泊


バイシャリ・レジデンシー
 以前はバイシャリにはホテルはありませんでした。バイシャリの観光はパトナからの日帰りで行うか、パトナ~クシナガラの移動の途中に行うかのどちらかでした。2011年バイシャリ・レジデンシーがオープンしてからは、バイシャリに宿泊しての旅程を組む事も可能となりました。